FC2ブログ

備忘録 そして闘病録

      
       

ブログを更新しなくなって数年。すっかり忘れてしまったこのWANパク日記を、今日からまた少しずつ自分のためだけに書き留めておこうと思う。

体の不調が現れ始めてもう半年。 長い長いトンネルの、今はいったいどのあたりなのか、出口の明かりは未だ見えないままだ。


             血便

昨年の11月10日の夜、仕事から帰ってきて突然妙な便意を催し、トイレへ駆け込む。
ずるずると柔らかい便が出終わり、便器を覗いて仰天。

なんだこれ・・・

黒褐色のカレールーのようなもので便器がいっぱいになっていた。

「おかあさん、今日はちょっと調子が悪いんで、飯食べずに寝るわ」

なんなんだ、さっきの・・・

布団に横になりながら、今しがたの現実が受け止められないでいた。

泡盛の水割りを3~4杯。 いい気分になったところで、三線を取り出し沖縄民謡を爪弾く、
いつもなら何より楽しみにしている晩酌のひとときが、この日を境にピタリと消えた。


スポンサーサイト

組長襲名

町内会の「班」を、私たちの町では「組」という。

その組長の役が、今年度まわってきた。しかも近隣4つの組の会計というおまけまでついてきた。

99160001.jpg


明治の代から続いているという組長保管の木箱を引き継いだ。中にはその当時からの「重要書類」がぎっしり詰まっている。

おりを見て中の帳面などにも目を通してみよう。



今年一年、どうか大過なく過ぎますように…



郷愁

薩摩半島の最南端に、開聞岳という山がある。標高922メートル。薩摩富士ともよばれるこの美しい円錐形の山は、裾野を太平洋に洗われ、ふかい緑におおわれた山頂から麓まで一直線の傾斜をみせた端正な山である。開聞岳の名は、鹿児島湾の入り口にあるところから「海門」となり、それが転じたのだという。
40年まえ、本土最南端、陸軍最後の特攻機地知覧を出撃した特攻機の編隊は、この開聞岳上空を西南に向かって飛び去っていった。
本土ともこれでお別れになる。隊員たちは、日本最後の陸地である開聞岳の姿を心の底に灼きつけるように、何度も振り返り振り返り凝視めていた。なかには、万感の念いで祖国への訣別の挙手の礼をこの山にむかって捧げている少年兵もいたという。
開聞岳上空から沖縄まで650キロ。海上2時間余の飛行。この山に別れを告げ、還らざる壮途についた特攻隊員462人。出撃機数431機。開聞岳は美しくもかなしい山である。


                           神坂次郎著 「今日われ生きてあり」の最初のページより


1ヶ月前ここを旅したときに、一番見たかったところでもある開聞岳。この本の序章を読んで、ようやく得心がいった。

この山は飛び立っていくものたちにとって、愛する祖国の象徴だったのかもしれない。


DSCF2932.jpg



この本に出てくる特攻隊員のエピソードの中に、私の住む町出身の将兵がいたことを知った。

「岐阜県加茂郡上米田村」、現在は川辺町に編入。奇しくもこの「川辺」(かわべ)という地名も、知覧の隣町に同名の町(こちらはかわなべ)がある。

そういえば以前日記にも書いた同町在住の元特攻隊員だったご老人の話によれば、叔父が陸軍特攻で散華されたのが縁で今も毎年知覧に慰霊に訪れる方が町内にいらっしゃるという。

きっと、その方のご遺族なのだろう。



わが町に住むものにとって、シンボルともいうべき山がある。

その名は「米田富士」。飛騨川のダム湖にたたずむ稜線の美しい里山だ。

最近になって何気なくこの山を見たとき、ハッとした。

シルエットが開聞岳と同じだったからだ。

DSCF2992.jpg


高度を上げていく操縦席の中で、この本に出てくる同郷の特攻隊員は、開聞岳に自分のふるさとを見ていたにちがいない。


一ヶ月前に開聞岳を遠望したとき、ふと沸きあがった郷愁のような切なさは、あのころの若者が70年の時を超えて垣間見せてくれた記憶の断片だったろうか。



美しくもかなしい山… 文中の一節が、いつまでも頭の隅に残る。




増税前

TVや新聞チラシでは、最近盛んに

「増税前のラストチャンス!」

などと、消費者をあおり立てている。


そんなに慌てんでも、必要なときに必要なだけ買えばいいじゃん。


とは思いつつ、店の消耗品でなにか足らないもの、なかったかな~…


あっ、セロテープがそろそろなくなるぞ。

綿棒も買っておいたほうがいいかな。

そうだ、台所のサランラップも切らしてたんだ。

増税前に買っておこう。


そうそう、お昼用のインスタントラーメンも。

あ、卵もなくなる! ケチャップも残り少ないぞ!



なんとなく、浮き足立っている今日このごろである。




もうひとつの3.21

きょう3月21日は春分の日、お彼岸の中日、そして1年前親爺が三途の川を渡った日でもある。

仕事前に仏壇に手を合わせ、墓参りに行った。

1年か、はやいな~…。



親爺が死ぬ直前、私にアクシデントがあった。

何年かのサイクルでぶり返す前立腺炎が、発症してしまったのだ。

テロに遭ったかのように、なんの前触れもなく、ほんの数時間で全身状態が最悪となる。

ああ~、またか~。よりによってなんでまた、こんなときに。

親爺のほうも、いよいよ危なくなっていたからだ。

私もかかりつけの病院に即入院、24時間の点滴が繋がれた。顔見知りになった主治医の先生には家族の事情を話しておく。


熱が少し下がり始めた4日目、親爺の目が閉じなくなったと女房から連絡が入る。

ナースセンターに直訴、先生も駆けつけてくれ、抗生剤をどっさりもらって退院の手続きをとった。

ふらつく体で親爺のいる病院へ。 酸素マスクを当ててもらいながらの呼吸は弱く、浅い。なんとなく魂がもう肉体から離れてしまっている気がした。


ふわぁ~っと消えるように息を引き取ったのは、その夜だった。


お葬式の日は小学校の卒業式と重なり、その撮影の仕事があった。親族には先に葬議場へ行ってもらい、綱渡りのように葬儀ホールにすっ飛んでいったっけ。


1年前、そんなことがあったよな~…

およそ2週間というあの時間は、自分にとってちょっとした修羅場だったと思う。

終わってみれば、なんとかなるもんだ。


墓参りを済ませ、寺の境内にあるお稲荷さんの小さな鳥居を、くぐった。


3.21

鹿屋と知覧で目にしたことはいろいろあり、そのひとつひとつを書きとめようとするのだけれど、途中から筆が進まなくなり、書いては消し書いては消しを繰り返している。


私なんかのつたない表現では軽々しく文字にできるものではない、多くのこと。


でも、このことは書きとめておこう。

鹿屋航空基地史料館には特攻で散華された908名の遺影が展示(これを展示などといっていいのかわからないが)してある。これは鹿屋基地から発進した海軍特攻機の搭乗員の数であり、ほかの基地から出撃、散華された数を合わせると、膨大な数に上る。

ちなみに知覧の特攻平和会館には1037名の遺影。こちらは陸軍だ。


そのいずれもが、特攻という本来ならあってはならない手段で、いのちを散らせていった若者たちである。

数千という、若い命、それぞれにあった、それぞれの人生。

その何分の一かでも咀嚼できる想像力など、どうしたらつくれるだろうか。




鹿屋の遺影の中に、「神風特別攻撃隊神雷部隊桜花隊」の部隊名がたくさん読みとれる。

その散華された日付けで最も多いのが、昭和20年3月21日…。



この日、一式陸上攻撃機に抱かれた人間爆弾「桜花」を使用した特攻が、はじめて実施された。

その部隊名が、先日も書いた神雷部隊である。

18機の一式陸攻と15機の桜花、指揮官は野中五郎少佐という、一風変わった親分肌の士官だったという。


この特攻がどういう結末をたどったか、それは悲しい史実としてよく知られている。




遺影の下に「3月21日」という日付けを見つけるたび、もう一度その写真を食い入るように見た。

そのどれもがあまりに若く、そして端正なことに、見ている自分の身の置き場がなくなるような気がした。


アメリカのたべもの

子供のころに刷り込まれたイメージというものは、年をとってからもなかなか変わらなかったりする。

私にとって、これもそんなもののひとつ。

95610001.jpg


コーンフレークだ。

わが家のテレビがまだ白黒だったころに初めてCMを見た記憶がある。

へぇ~、アメリカからやってきた、まったく新しいたべものか~…

牛乳をかけて食べるというスタイルも、想像がつかなかった。なんせそのころ牛乳といえば、その代用として学校の給食に出てくる脱脂粉乳しか知らないのだから。

うまそうやな~ いつかあんなの、食べてみたいな~



だから最近になっても、私には敷居の高い食べ物のひとつである。

そんな「アメリカのたべもの」を、今日は昼ごはんとしていただいた。


1st Anniversary

今でもたまに亡くなったじいさんの夢を見る。

夢の中に出てくるじいさんはあいかわらず認知症の初期で、世話ばかりかけるうっとうしい存在なのだが(笑)

そんなクソじいさまが亡くなって早1年、昨日は身内の近しい人に集まってもらい、形ばかりの一周忌法要をいとなんだ。


食事の席でもじいさんの思い出話を語るよりは、もっぱら自分たちの近況やら世間話ばかりが飛び交う。

これでいいんだと思う。亡くなった人はこうして少しずつ遠ざかっていくのがいい。


さてじいさん、こんどはいつ、夢の中に出てきてくれるだろうか。



3.11

鹿屋航空基地史料館の広大な外庭には海上自衛隊歴代の哨戒機やヘリコプターが屋外展示されている。その中でひときわ異彩を放つのが太平洋戦争で活躍し、世界にただ一機現存する帝国海軍の二式大型飛行艇だ。
この飛行艇は、制式採用になったのが皇紀2602年。その末尾の数字を取り名づけられたもので、つまり昭和17年ということになる。

大きく鈍重な飛行艇にもかかわらず、任務が過酷なものが多かったためか、終戦まで生き残っていた二式大艇はたったの3機。そのうちのこの機体だけが数奇な運命をたどりつつなおも生き延び、ふるさとの鹿屋に戻ってきて、史料館の庭にその翼を休めている。

DSCF2819.jpg



昭和20年3月、鹿屋を本拠地とする第五航空艦隊は、硫黄島攻略を終え泊地のウルシー環礁に帰投する米機動部隊に向けて、大がかりな特別攻撃隊を組織する。

それが新鋭の陸上攻撃機「銀河」24機からなる梓(あずさ)隊で、800kg爆弾を積んだ彼らを洋上はるか3000kmの小島に向け誘導する任務が、2機の二式大艇に与えられた。

その出撃が、3月11日、今日であった。


誘導機である二式大艇も3000kmも飛べば燃料が尽きる。搭乗員には任務を果たしたあとに洋上着水し、潜水艦に拾ってもらう手はずが伝えられた。

爆弾を抱えたまま敵艦に体当たりする銀河と、生還の道筋がある誘導機。彼らの間にどんな葛藤があったのだろう。



城山三郎の短編集、「忘れえぬ翼」の一編に、この梓特別攻撃隊を題材にしたものが描かれている。

何度読み返しても、切なく、苦しく、そして美しい。


忘れ得ぬ翼 (角川文庫)忘れ得ぬ翼 (角川文庫)
(2001/07/25)
城山 三郎

商品詳細を見る



3.11 ちょうど今頃、若者たちの大編隊が自分の命と向き合いながら南の空を飛んでいたことを、私は忘れないでいよう。



あと1週間

自分の中でずっと念願だった「鹿児島行き」を実現するべく、準備をしてきた。


来週の火曜日から金曜日まで、店を4日間も閉めてまで、やっておきたいこと。


薩摩半島と大隈半島のほぼ南端に位置する「鹿屋」と「知覧」、大戦末期に陸海軍の航空特攻基地として多くの若者たちが飛び立って行った、その場所を訪れることだ。


69年前のちょうど今頃、硫黄島に米軍の大兵力が上陸し、双方に恐るべき損害を出しながらも孤島が制圧されていく。

そして翌月、サイパン、テニアンから飛来するB29爆撃機の重要な中継基地を得た米軍は、まもなく首都東京をはじめ、あらゆる地方都市を無差別爆撃の標的と定め、それと同時に本土上陸の拠点となる沖縄侵攻の準備も着々と進められていったのだ。



本土決戦、一億総特攻が叫ばれる中で、なんとしても、祖国を護る。家族を護る。


自分のわずか1/3の年齢でしかない若い兵士たちがその決意を胸に、各地からかき集められた、整備が万全とはいえない機体に重い爆弾を抱えて沖縄に遊弋する敵艦に体当たりをすべく、飛び立っていった場所。



この目でしっかり見ることで、なにが見えてくるか。

若いころには知ろうともしなかったことが、今はとても大切なことに思えてしかたない。

さあ、あと1週間だ。



プロフィール

smile

Author:smile
わが家のワンコを溺愛する「わんこおやじ」。
本業(写真店)のかたわらワンコ用スイーツも作っています。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
FC2カウンター
現在の閲覧者数:
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR