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鯨肉

団塊の世代、そしてその少し後に育った私たちの世代は、小学校給食に出てきたカレーシチューの「具」を憶えておいでだろうか。

肉とは名ばかりの、臭くてベロベロした豚の脂身。赤身の肉なんてシチューのどこを探しても出てこなかったっけ。

そういえば給食メニューの「酢豚」もそう。 「豚」のほとんどは脂身のところだった。

だから今でも豚の脂身にはあのころのマイナスイメージがついてまわり、「いい豚肉は、脂身がおいしい」なんていうグルメの定義が理解できなかったりする。



かわりに家庭でも学校でも貴重な動物性蛋白源としてよく登場したのが、鯨の赤身だ。

硬くてスジがなかなか噛み切れず、あごがくたびれた鯨肉。昭和20年代、30年代生まれまでの大多数の人々は、この鯨肉に育ててもらったといっても言い過ぎではないだろう。

その鯨肉のなつかしい食感も、まもなくきれいに忘れ去られる日がやってくるかもしれない。


でも、それはそれでいいと思う。この飽食の時代、鯨肉が食べられなくなっても困る人はもうほとんどいないはずだから。


ただ、捕鯨という行為がすべて過去のものとなる前に、せめてその歴史のあらましを知っておいてから、ピリオドを打ちたいものだ。

日本にはその「文化」があった。今も和歌山の太地に伝わるような捕鯨の文化があちこちの港町にあったのである。


そういえば半年ほど前、「巨鯨の海」という小説を読んだ。


大型船で根こそぎ捕まえ、工業用の油に変えていたどこかの国の動物愛護を叫ぶ人たちに、ぜひとも読んでもらいたいと思う。



年をとるとクドくなるというが、ほんとうだ。

日記に鯨肉のことで同じようなことを書くのはこれで3度目のような気がするけど、書かずにいられなかった(笑)









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3.10

東日本大震災から3年目の「3.11」がやってくる。

さんてんいちいち。いまや耳慣れたこの単語は未来永劫、人々の心から消えていくことはないに違いない。

今日という日は、どうだったのだろう。


3.10 すなわち3月10日を忌まわしい記憶として今も心にとどめる人は、もうそんなに残っていないのかもしれない。



昭和20年3月10日。この日、米軍は初めて相手国民の無差別殺戮を目的とした作戦に踏みきった。

いわゆる東京大空襲である。


9日の深夜に誘導機が都内上空に侵入、そして日付が変わるころより多数のB29編隊がやってきて低空から焼夷弾と機銃弾を雨のように降らせたという。


本来、戦争というものは一般市民を巻き添えにしない。流れ弾に当たるという不幸なことは起こりえても、無防備な人々、ましてや老人、女子供を「狙い撃ち」するに等しい行為は、もはや戦術と呼べるものではないだろう。

それまでの軍需工場や軍事関連施設を爆撃目標にしてきた米軍は、このときを境に無差別に焼き尽くす戦術に変換し、日本のあらゆる市街地を蹂躙、やがては原子爆弾という究極の殺戮兵器を使用するに至る。


3月10日の空襲だけで10万人の死者を数えた。


天災ではなくて、人がおよぼした「災い」を、3.11の前に、いま一度、思い起こしてみたい。



報道という意味

少なくとも「ジャーナリスト」と呼ばれるような報道に携わる人たちは、ものごとの本質が間違って解釈されないように、読者あるいは視聴者に正しく伝えてこそ、その職務の意味があるはずだ。

「あ、今、○○○って言いましたよね。たしかに言いましたよね」

その「○○○」の部分を強調して報道する。

結果、「○○○」だけが、独り歩きするようになる。


発言で出てきた言葉がセンシティブなものであればあるほど、その発言に至る文脈を正確に伝えようとしなければ、単なる言葉尻を捕らえただけの、あら探しに終わってしまう。

それをジャーナリズムとはいえまい。



こういった報道のこわいところは、敏感に反応し、深読みしようとする一部の受け手に対してではなく、大部分を占めるであろう、「大して関心がない人々」の目に、知らず知らずに色眼鏡をかけてしまうことだ。

「あら~、あの人そんなこと言ったの。いやだわね~」

こういうことを、情報操作といわないのか。



私たちは日常生活の中で、してはいけない、されたら嫌なことも、累が及ばないところで起こるスキャンダラスな出来事は、ひょっとすると楽しんでさえいる場合もある。それは人間誰しも持っている感情のバランス感覚なのだろう。
そういう部分を、彼らは巧妙にくすぐろうとする。

「知ってる? あいつ、こんなこと言ったんだぜ。ひどいやつだと思わないか」


そういうソースを提供するのもジャーナリズムの仕事であり真実の報道だとうそぶくのなら、私は彼らを絶対に信用しない。


「大本営はこう発表した。日本は勝っている」

国策の大義に糊塗された報道をし続け、国民の目をあらぬ方向に向けさせた、かつてのジャーナリズム。

方向性が変っただけで、今も本質はあまり変わっていないのかもしれない。


ゆめゆめ、報道を鵜呑みにしてはいけない、と思う。

経済活動の危うさ

2週間続いた大雪で、たいへんな被害をこうむっている地域があるという。

特に関東甲信越ではいまだに雪のため車が立ち往生しているところがあるんだとか。

私にとってはなじみの深い八ヶ岳山麓の富士見町もそうだ。ニュースで名前が出てきてびっくりした。


交通手段が途絶えるということは物流が麻痺すること。それも深刻な状況になるのに時間はかからない。

ましてや、当該地域の経済はまったくストップしているといっていい。

にわかに降りかかる、耐乏生活。


わが身に置き換えてみてもよくわかる。少し雪が降りさえすれば、ただでさえ少ない店への客足はばったり途絶える。

なにもこんなときに車を停めて写真屋に寄り道する必要もないからだろう。


経済の危うさを、こういうときにひしひしと感じてしまう。


送料無料ということ

10年前までの写真屋が、どこからどういうルートで商品や原材料を仕入れていたかというと、これはどこのお店も似たり寄ったりで、業界専門の卸問屋が全国にいくつかあり、たいがいはそのいずれか1~2社と太い取引関係を結んでいた。

決済は月締めで、注文するものはファックスで流し、問屋さんはその都度すぐに調達、発送してくれていた。


そこに「送料」という観念は存在していなかった。金額の多少に関わらず、たとえ数百円の商品であっても、手間をいとわず送ってくれたものだ。

中には大きな金額の取引も当然あるわけで、それらをトータルに見ていけば、小口の配送であっても元は取れていたからだろう。



だがこの10年で物流が変わり、卸→小売という形態が大きく様変わりしてしまった。

小さな卸問屋は資金難にあえぎ、大きな会社は機動力の乏しさを露呈しつつ、世の中からどんどん消えていくか統廃合の運命におかれる中、コスト管理はどこもとことんシビアになり、やがて小額の商品発注では送料を上乗せするようになっていった。

商品発注はトータルで3万円以上からお願いします。

それ未満は送料がいくらいくらかかります。等々…


考えてみれば、物流にかかるコストはそうとうなものである。

それにあえて目をつむってこられた、それまでの時代が鷹揚過ぎただけのことか。



しかし昨今、そんな時代の流れに逆行するように、ネット通販形式で写真材料その他も「配送料無料」をうたう企業が目立ってきた。


ネット通販の雄、Amazonもしかり、ヨドバシカメラもしかり。

ヨドバシカメラなど、それまでの写真問屋があまり扱わなかったようなレアな用品なども送料無料で送ってくれたりする。それも在庫があるものなら、たいがい翌日には手元に届いてしまうスピーディさだ。

従来の写真問屋など、足元にも及ばない機動力と便利さ。価格においても、問屋に頼っていたころより今のほうがむしろ安かったりする。


このあたりのからくりがわからない。数百円のものを送料無料で送って、利益などどうしたら出せるものだろう。

梱包だって、雑ではない。それに段ボール箱代、輸送にかかるコスト…



企業が戦略的に「送料無料」を打ち出し、ライバルに消耗戦を挑んでいるのであれば、これはどこかに破綻の危険がひそんではしないか。

無理を重ねていくうちに自らの体力を消耗し、いずれ企業が立ち行かなくなるのではないか。


送料無料を有り難がってばかりいるのは、リーズナブルな経済社会を考えたら、あまり歓迎する現象ではないのかもしれない。


と思いつつ、「送料無料」と書いてあるとホッとしてしまうのだが…



70年前の手触り

知人から先日来、大切なものをお預かりしている。

私みたいなものの手元にあっていいのかという畏れを感じながらも、包みを開けて中のものに目を通すと…



戦地で撮られたものであろう、自分と戦友の写ったネガフィルム。

びっしりと細かな文字で書き込まれた教練ノート。 私たちが目にする大学ノートと変らない。 違うのは、文字の丁寧さと、内容のリアルさだけ。

これから行く場所が最後の任地になることを予期しているかのような、同僚に宛てた走り書きのメモ。 これは結局、同僚の手には渡らなかったということか。

きっと宝物のひとつだったのだろう、昭和何年か刻印の不明瞭な、靖国神社のメダル。

精緻なつくりの勲章。

そして、両親と兄弟に宛てた、遺書…。



つまり、軍人さんの遺品だ。


64420001.jpg



これは陸軍の軍隊手帳。

靖国の遊就館でボロボロになった手帳は目にしているが、裏の止め具がわずかに破れているものの、とても70年の歳月を経たものとは思えない手触りに驚く。

それはきっと、70年前と変らない手触り…。



天皇の勅語にはじまり、陸軍軍人としての心得が薄い半紙のようなページに延々と連なり、最後に数頁、持ち主の身分、経歴等がこれも緻密なペン字でびっしりと書き込まれていた。


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ページをめくっていくと、「戦陣訓」つまり「戦場での心構え」が列記されている。


その中で、私でも知っている有名な言葉に

「生きて虜囚の辱めを受けず」

という一文がある。

旧日本軍の体質を語られるとき、この一節だけがクローズアップされ、独り歩きをしているようにも思えるが、この後には

「死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という文言が連なる。

ひらたく言えば、

「敵に捕まっておめおめ生き延びることは屈辱であるし、みっともない死にかたもしてはならん」

ということだろうか。


そんな言葉のひとつひとつが、伝え聞いたものではなく、たしかに今私の目の前に、ある。




昭和20年8月15日。 この日を迎えることなく散っていった兵隊さん、そして市民、そして生き残った人たち。 そのすべての人々が託した世の中の延長線上に、私たちは安住している。

うまいのまずいの、足らないの多すぎるだの、そんな瑣末な事柄に日々のエネルギーを費やしつつ…。



この日を境に、それまでの国のありようを全否定し、ふりかえってみれば、私の世代も含め、あのころの戦争のことは学校で教わったことなどなかったに等しく、ぬるま湯の中でなんとなくこれが「平和」なのかなと納得してきたこの国。


もちろん軍国教育というのも偏ったものに違いないだろうが、戦後の人々は、ある意味いびつな育ちかたをしてきたのではあるまいか。


このまま戦争の記憶が風化されていく前に、ひとつでもそんな「手がかり」をこの目にとどめておきたい。


70年前の手帳の手触りが、ますますその思いを強くさせてくれたような気がしている。



投票日

今日は参議院議員の投票日。

私も、店に出る前に投票を済ませてきた。

たしか、去年の衆議院議員の選挙では、私は初めて白票を入れたんだ。

私なりの、ささやかな意思表示のつもりだったが…。


でも、今回はちゃんと候補者名を書いたし、政党名も書いた。

これも、意思表示。


景気を良くしてくれ、なんて他力本願なことはいわない。

税金が上がることも、ほかに方法がないんだったら、しょうがない。

まずは国として、他国に甘く見られないことをしてほしい。

お、ニッポンは変ったな、と隣国に感じさせる外交ができるなら、おのずとわれわれ国民の意識も変っていくと信じたい。




今日も投票終了の時間が近くなれば、TVではこぞって開票速報が始まるのだろう。

開票率0%での当確発表、そしてあっという間に大勢判明…

選挙のたびに繰り返される、実況中継ショーだ。



いったい報道は、いつからそんなに勇み足になってしまったのか。

開票率が90%を超えてもなお、慎重になりゆきを見守る。

そんな姿勢を崩さない放送局は、もうないのだろうか。



どこかで誰かが

晩酌で飲む「松竹梅 天」の2Lパックが、878円。

朝起きたら欠かせない牛乳、1パック158円。

カイワレ大根は1パックが38円で、もやしが19円で、納豆が3個で88円。

あいかわらず卵は安価だし、はるばるノルウエーからやってきた塩さばの半身は、98円だ。

これはわが家がよく利用するスーパーやドラッグストアでの価格だが、安くていいものを消費者は求め続け、生産、流通にかかわる人はコストをぎりぎりまで抑えないと、競争に勝てないのはどの業界も同じことだろう。

そうしたことがひとつひとつ積み重なって、今の世の中がある。

どこかで誰かを泣かせて、あるいは踏みつけにして成り立っている経済社会、といえるかもしれない。



表向きはモノがあふれ、便利で快適な環境に恵まれて、一見安穏な日々を暮らしている私たち。

ぎりぎりまでコストを削る、時間を削る、無駄を削る、そして利益もゆとりも削られ、

いつしか、たいせつなものがなくなっていることにも気がつかずに過ぎるのだろうか。



再来月には隣町のソニーの工場も閉鎖…


モノはあふれているというのに、閉塞感が見え隠れする。

右傾化

ジャズからクラシック、演歌にワールドミュージック。 いいなあと思ったものは素直に好きになってしまうので、音楽ジャンルには昔からまったくこだわっていない。

でもって、今年いちばんよく聞いていた音楽といえば、吹奏楽だろうか。


吹奏楽、ブラバン。

高校時代は吹奏楽にどっぷりの3年間だったけど、それ以後、これほど夢中になって聞きまくったことはなかったくらいだ。

毎日仕事帰りに、じいさんの入っている病院までの道中を、好きなCDをかけながら走る。

吹奏楽といえば、マーチも好きだ。 軍艦マーチなんてパチンコ屋の代名詞みたいなイメージを持たれてしまっているが、昔はこの勇壮なメロディーに鼓舞されて戦地へ赴いていったのだろう。

そしてついこの間、レンタルしたのが、これ。


51860001.jpg


さすがに人前で聞くのははばかられ、こっそりと車の中でひとりで楽しむ、ここ数日のお気に入りだ。

演奏集(インストルメンタル)なので、大仰な?歌詞に街宣車を連想することもなく、日本の兵隊さんが歌っていたであろうメロディーが素直に耳に入ってくる。

同期の桜、加藤隼戦闘隊、ラバウル小唄…こうしてあらためて向かい合ってみるとみんないい曲ばかりで、思わずハンドルを握る腕を振りたくなり、規則的な蛇行運転になったりする。

エンジンのお~と~ ごお~ご~お~お~と~…



話は変るが、今度の新政権では「急先鋒」と呼ばれる人たちが何人か要職に就いたそうだ。

高市早苗、稲田朋美、小池百合子…そんな暴れん坊を石波 茂と安倍晋三がたばねる。

これを「右傾化」だといって警戒する向きもあるとか。

いや~大歓迎じゃないか。


右とか左とか、そんなことはこの際どっちでもいい。

国内にも対外的にもバランス感覚を気にするあまり、波風を立てられなかった政治の世界に大波が起こることが大切なんだよね。

そうすれば、今まで無関心でいられた人々も、領土のこととか戦争の歴史のことを少しは考えるようになるかもしれない。



戦争に負けて、今までの世の中や生きかたを全否定することから始まった戦後日本の歴史がある。

ニッポンはかつて、悪いことをしてきた…そんなふうに教えられ育ってきた土壌がいつしか、そういったことに無関心を装う世の中を作り出してしまったのか。

隣国の国民が日の丸を燃やす映像を見ても腹を立てないのは、日本人がオトナだから、ではないだろう。


無関心は、最大の敵。


隣国に「極右集団だ!」と警戒の目を向けられている暴れん坊さんたちは、われわれの心に一石を投じてくれるだろうか。


ボキャブラリー

昨夜報道ステーションを見ていたら、原子力関連のゲストコメンテーターが解説している中で

「原子力に反対しているやつらはバカだチョンだ(という空気がある)」

と、口を滑らせた。

すぐに古館キャスターが「愚かだ、ということですね」とフォローを入れ、不適切な表現があったことを詫びていたが、解説の趣旨もなにも、このひと言で場の雰囲気がうわずってしまい、せっかくのスクープ報道が台無しになってしまった。


CMが流れている間、あのスタジオではどんな空気が流れていただろうか。生放送のこわいところでもある。



民族間の差別というニュアンスを含んだ言葉、「チョン」

少なくともこういうTVに出てくるような良識ある人たちにとっては、とっくに死語になっていたと思っていた。


しかし文脈の中ですらすらとそんな単語が出てくるというのは、いったいどういうことか。


その人のボキャブラリーの中では、今でもばりばりの「現役」ということにほかならない。

きっと、オフレコの会話の中では何の気を使うことなく、こういう単語にためらいを持たない人なのだろう。

いくら話の趣旨が高邁なことを言っていても、中身が透けて見えてしまう。

どんなに社会的にすばらしい人であろうと、お里が知れる。


ボキャブラリーとは、そういうものだと思う。

プロフィール

smile

Author:smile
わが家のワンコを溺愛する「わんこおやじ」。
本業(写真店)のかたわらワンコ用スイーツも作っています。

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