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組長襲名

町内会の「班」を、私たちの町では「組」という。

その組長の役が、今年度まわってきた。しかも近隣4つの組の会計というおまけまでついてきた。

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明治の代から続いているという組長保管の木箱を引き継いだ。中にはその当時からの「重要書類」がぎっしり詰まっている。

おりを見て中の帳面などにも目を通してみよう。



今年一年、どうか大過なく過ぎますように…



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鯨肉

団塊の世代、そしてその少し後に育った私たちの世代は、小学校給食に出てきたカレーシチューの「具」を憶えておいでだろうか。

肉とは名ばかりの、臭くてベロベロした豚の脂身。赤身の肉なんてシチューのどこを探しても出てこなかったっけ。

そういえば給食メニューの「酢豚」もそう。 「豚」のほとんどは脂身のところだった。

だから今でも豚の脂身にはあのころのマイナスイメージがついてまわり、「いい豚肉は、脂身がおいしい」なんていうグルメの定義が理解できなかったりする。



かわりに家庭でも学校でも貴重な動物性蛋白源としてよく登場したのが、鯨の赤身だ。

硬くてスジがなかなか噛み切れず、あごがくたびれた鯨肉。昭和20年代、30年代生まれまでの大多数の人々は、この鯨肉に育ててもらったといっても言い過ぎではないだろう。

その鯨肉のなつかしい食感も、まもなくきれいに忘れ去られる日がやってくるかもしれない。


でも、それはそれでいいと思う。この飽食の時代、鯨肉が食べられなくなっても困る人はもうほとんどいないはずだから。


ただ、捕鯨という行為がすべて過去のものとなる前に、せめてその歴史のあらましを知っておいてから、ピリオドを打ちたいものだ。

日本にはその「文化」があった。今も和歌山の太地に伝わるような捕鯨の文化があちこちの港町にあったのである。


そういえば半年ほど前、「巨鯨の海」という小説を読んだ。


大型船で根こそぎ捕まえ、工業用の油に変えていたどこかの国の動物愛護を叫ぶ人たちに、ぜひとも読んでもらいたいと思う。



年をとるとクドくなるというが、ほんとうだ。

日記に鯨肉のことで同じようなことを書くのはこれで3度目のような気がするけど、書かずにいられなかった(笑)









郷愁

薩摩半島の最南端に、開聞岳という山がある。標高922メートル。薩摩富士ともよばれるこの美しい円錐形の山は、裾野を太平洋に洗われ、ふかい緑におおわれた山頂から麓まで一直線の傾斜をみせた端正な山である。開聞岳の名は、鹿児島湾の入り口にあるところから「海門」となり、それが転じたのだという。
40年まえ、本土最南端、陸軍最後の特攻機地知覧を出撃した特攻機の編隊は、この開聞岳上空を西南に向かって飛び去っていった。
本土ともこれでお別れになる。隊員たちは、日本最後の陸地である開聞岳の姿を心の底に灼きつけるように、何度も振り返り振り返り凝視めていた。なかには、万感の念いで祖国への訣別の挙手の礼をこの山にむかって捧げている少年兵もいたという。
開聞岳上空から沖縄まで650キロ。海上2時間余の飛行。この山に別れを告げ、還らざる壮途についた特攻隊員462人。出撃機数431機。開聞岳は美しくもかなしい山である。


                           神坂次郎著 「今日われ生きてあり」の最初のページより


1ヶ月前ここを旅したときに、一番見たかったところでもある開聞岳。この本の序章を読んで、ようやく得心がいった。

この山は飛び立っていくものたちにとって、愛する祖国の象徴だったのかもしれない。


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この本に出てくる特攻隊員のエピソードの中に、私の住む町出身の将兵がいたことを知った。

「岐阜県加茂郡上米田村」、現在は川辺町に編入。奇しくもこの「川辺」(かわべ)という地名も、知覧の隣町に同名の町(こちらはかわなべ)がある。

そういえば以前日記にも書いた同町在住の元特攻隊員だったご老人の話によれば、叔父が陸軍特攻で散華されたのが縁で今も毎年知覧に慰霊に訪れる方が町内にいらっしゃるという。

きっと、その方のご遺族なのだろう。



わが町に住むものにとって、シンボルともいうべき山がある。

その名は「米田富士」。飛騨川のダム湖にたたずむ稜線の美しい里山だ。

最近になって何気なくこの山を見たとき、ハッとした。

シルエットが開聞岳と同じだったからだ。

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高度を上げていく操縦席の中で、この本に出てくる同郷の特攻隊員は、開聞岳に自分のふるさとを見ていたにちがいない。


一ヶ月前に開聞岳を遠望したとき、ふと沸きあがった郷愁のような切なさは、あのころの若者が70年の時を超えて垣間見せてくれた記憶の断片だったろうか。



美しくもかなしい山… 文中の一節が、いつまでも頭の隅に残る。




増税前

TVや新聞チラシでは、最近盛んに

「増税前のラストチャンス!」

などと、消費者をあおり立てている。


そんなに慌てんでも、必要なときに必要なだけ買えばいいじゃん。


とは思いつつ、店の消耗品でなにか足らないもの、なかったかな~…


あっ、セロテープがそろそろなくなるぞ。

綿棒も買っておいたほうがいいかな。

そうだ、台所のサランラップも切らしてたんだ。

増税前に買っておこう。


そうそう、お昼用のインスタントラーメンも。

あ、卵もなくなる! ケチャップも残り少ないぞ!



なんとなく、浮き足立っている今日このごろである。




もうひとつの3.21

きょう3月21日は春分の日、お彼岸の中日、そして1年前親爺が三途の川を渡った日でもある。

仕事前に仏壇に手を合わせ、墓参りに行った。

1年か、はやいな~…。



親爺が死ぬ直前、私にアクシデントがあった。

何年かのサイクルでぶり返す前立腺炎が、発症してしまったのだ。

テロに遭ったかのように、なんの前触れもなく、ほんの数時間で全身状態が最悪となる。

ああ~、またか~。よりによってなんでまた、こんなときに。

親爺のほうも、いよいよ危なくなっていたからだ。

私もかかりつけの病院に即入院、24時間の点滴が繋がれた。顔見知りになった主治医の先生には家族の事情を話しておく。


熱が少し下がり始めた4日目、親爺の目が閉じなくなったと女房から連絡が入る。

ナースセンターに直訴、先生も駆けつけてくれ、抗生剤をどっさりもらって退院の手続きをとった。

ふらつく体で親爺のいる病院へ。 酸素マスクを当ててもらいながらの呼吸は弱く、浅い。なんとなく魂がもう肉体から離れてしまっている気がした。


ふわぁ~っと消えるように息を引き取ったのは、その夜だった。


お葬式の日は小学校の卒業式と重なり、その撮影の仕事があった。親族には先に葬議場へ行ってもらい、綱渡りのように葬儀ホールにすっ飛んでいったっけ。


1年前、そんなことがあったよな~…

およそ2週間というあの時間は、自分にとってちょっとした修羅場だったと思う。

終わってみれば、なんとかなるもんだ。


墓参りを済ませ、寺の境内にあるお稲荷さんの小さな鳥居を、くぐった。


3.21

鹿屋と知覧で目にしたことはいろいろあり、そのひとつひとつを書きとめようとするのだけれど、途中から筆が進まなくなり、書いては消し書いては消しを繰り返している。


私なんかのつたない表現では軽々しく文字にできるものではない、多くのこと。


でも、このことは書きとめておこう。

鹿屋航空基地史料館には特攻で散華された908名の遺影が展示(これを展示などといっていいのかわからないが)してある。これは鹿屋基地から発進した海軍特攻機の搭乗員の数であり、ほかの基地から出撃、散華された数を合わせると、膨大な数に上る。

ちなみに知覧の特攻平和会館には1037名の遺影。こちらは陸軍だ。


そのいずれもが、特攻という本来ならあってはならない手段で、いのちを散らせていった若者たちである。

数千という、若い命、それぞれにあった、それぞれの人生。

その何分の一かでも咀嚼できる想像力など、どうしたらつくれるだろうか。




鹿屋の遺影の中に、「神風特別攻撃隊神雷部隊桜花隊」の部隊名がたくさん読みとれる。

その散華された日付けで最も多いのが、昭和20年3月21日…。



この日、一式陸上攻撃機に抱かれた人間爆弾「桜花」を使用した特攻が、はじめて実施された。

その部隊名が、先日も書いた神雷部隊である。

18機の一式陸攻と15機の桜花、指揮官は野中五郎少佐という、一風変わった親分肌の士官だったという。


この特攻がどういう結末をたどったか、それは悲しい史実としてよく知られている。




遺影の下に「3月21日」という日付けを見つけるたび、もう一度その写真を食い入るように見た。

そのどれもがあまりに若く、そして端正なことに、見ている自分の身の置き場がなくなるような気がした。


南九州 番外編

指宿の山川港近くの道の駅?で見かけたトイレの看板。

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とくれば、


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デザイナーさんのセンスとユーモアに脱帽!



もうひとつ、こんなのも見つけました。



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思いっきり身近な名前を、こんな看板にしていただいて…(笑)




アメリカのたべもの

子供のころに刷り込まれたイメージというものは、年をとってからもなかなか変わらなかったりする。

私にとって、これもそんなもののひとつ。

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コーンフレークだ。

わが家のテレビがまだ白黒だったころに初めてCMを見た記憶がある。

へぇ~、アメリカからやってきた、まったく新しいたべものか~…

牛乳をかけて食べるというスタイルも、想像がつかなかった。なんせそのころ牛乳といえば、その代用として学校の給食に出てくる脱脂粉乳しか知らないのだから。

うまそうやな~ いつかあんなの、食べてみたいな~



だから最近になっても、私には敷居の高い食べ物のひとつである。

そんな「アメリカのたべもの」を、今日は昼ごはんとしていただいた。


1st Anniversary

今でもたまに亡くなったじいさんの夢を見る。

夢の中に出てくるじいさんはあいかわらず認知症の初期で、世話ばかりかけるうっとうしい存在なのだが(笑)

そんなクソじいさまが亡くなって早1年、昨日は身内の近しい人に集まってもらい、形ばかりの一周忌法要をいとなんだ。


食事の席でもじいさんの思い出話を語るよりは、もっぱら自分たちの近況やら世間話ばかりが飛び交う。

これでいいんだと思う。亡くなった人はこうして少しずつ遠ざかっていくのがいい。


さてじいさん、こんどはいつ、夢の中に出てきてくれるだろうか。



富屋旅館

案内された部屋は、こじんまりとしたふた間続きの、質素だがよく手入れされた和室だった。

特攻で散っていったわが子のことを尋ねにこられる遺族を迎えるために、昭和27年に富屋食堂とは別棟として建てられたという旅館。

以来この部屋は、いったいどれほど肉親の「想い」を抱えてきただろう。


平和な世に生まれ、あの時代のことをなにも引きずっていない私なんかでも、この部屋が違和感なく迎えてくれたような気がして少しホッとする。



夕食までの時間、旅館の付近を散策してみる。

こんな山に囲まれた田舎に、こんなに端正で静かな町並みがあるなんて…。


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子供のころ、すごく身近だった風景が、すぐ手に届くところにあったりする。

樹齢何百年だろう、大木を幾本も境内に抱えた古刹、豊かな水の流れ、ときおり聞こえてくる薩摩弁の暖かなひびき。


すべてのことをこの街並みが受容してくれるようで、穏やかな心持ちになる。


かつてここに陸軍最大規模の特攻隊基地があったなどと、だれが想像できようか。



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「麓川」と書かれた橋の欄干の両岸には桜並木が連なる。

知覧の桜…ここに住む人にとって、この地に縁のある人たちにとって、桜は特別な意味を持っているにちがいなく、桜自身もそのことをよくわかっているように、早くも花びらがほころんでいる枝が数本。

まだ3月にはいったばかりだというのに、咲き急いで早く散ろうというのか。

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宿に戻り、桜が咲いていたことを告げると、

「知覧は桜の咲き始めるのが早いんですけど、それにしても、もう咲いていましたか…」

と、驚かれていた。


この写真、大切にとっておこう。





プロフィール

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Author:smile
わが家のワンコを溺愛する「わんこおやじ」。
本業(写真店)のかたわらワンコ用スイーツも作っています。

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